中国で江沢民氏を悼み称賛する声がやまぬワケ、驚異の語学力・教養・人柄
12/2 6:01 配信 ダイヤモンド・オンライン
Photo:Forrest Anderson/gettyimages
● 江沢民氏の人柄がわかる思い出の数々
江沢民元国家主席(元共産党総書記)が11月30日、上海市で死去した。96歳だった。ニュースを聞き、私は「過ぎ去ったあの時代が懐かしい!歌が好きなあの長老のご冥福を祈る」と書いた。すると、意外に多くの人からの反響があった。その死去を悼む声だけではなく、自らの経験したことを実例に挙げながら、その人柄をしのんだケースが多かった。
投資ビジネス関連の仕事をしている女性は、記憶に残る往時をこう振り返った。
「1983~84年前後、院生時代の私は、中央官庁の第4機械工業省だった電子工業省に実習に行った。省内のダンスパーティーのために、ピアノやアコーディオンの伴奏に携わった。当時、大臣に当たる部長だった江氏は、自らピアノを弾きに来て、私たちと一緒にワルツを踊った。その様子を撮影された写真は、多くの人が持っており、実家にも置いてある。私は正式に同省に就職して、国際交流の窓口に配属された。江氏が日本語や英語で海外からの訪中団にあいさつするのを何度も見た」
また、長いこと日本に移住している中国人は、江氏をホテルの自分の客室に泊めた珍しい体験を披露した。
「江氏が上海市長だったとき、私はちょうど上海市農業委員会で働いていた。83年、私は崇明県(今は崇明区)で、ある専門会議を主宰し、江市長を招いて話をしていただいた。会議が終わったとき、台風がやってきて、上海へ帰るフェリーが欠航してしまった。そのため、江市長は上海に帰れなくなった。ホテルが満員になって、江市長を私の部屋に泊めて一夜をともに送った。夜、風呂に入ったとき、彼は日本軍の軍犬にかまれたふくらはぎの上の傷を見せてくれた。当時、国際会議に出て英語で演説もできる江氏は、中国の指導者の中では数少ない才能ある指導者だ」
その他にも江氏のさまざまな思い出や評価が飛び交った。
「国際制裁を受け、中国が危険な状態に陥ったときに、党の総書記を引き受けた江氏は、国を苦しい局面から脱出させることに成功した新時代の指導者だった」「中国に20年間の平和的発展の時間を確保してくれた指導者」と称賛する声も多かった。
私は、1993年に『江沢民と朱鎔基』(河出書房新社)、97年に『江沢民と本音で語る』(日本経済新聞社、共訳)などの書籍の出版を企画し、翻訳したことがある。江氏の死去に対して、もう少し踏み込んで語りたいと思う。
● 8カ国語を操り、おそるべき読書家だった江沢民
私は上海外国語大学の日本語科出身なので、自然に、江氏の外国語の語学力に関心を持った。メディアの報道を見ると、江氏は8カ国語ができたという。
英語とロシア語には精通している。ルーマニア語は3番目にできる外国語だ。スペイン語、日本語、フランス語、ドイツ語は一般のコミュニケーションに対応できるほどだ。それに、珍しくパキスタンとインドで通用するウルドゥー語もしゃべれるという。
上海で市長と党書記を務めていたとき、江氏の蔵書は3000冊ほどあった。この蔵書の数は、上海のトップとして、81年から85年まで上海市長だった汪道涵氏(1915~2005年)に次ぐ2位だった。江氏のスタッフは、彼のためにワシントン・ポスト紙などいくつかの英字紙を購読し、ロシア語の新聞も読みたいとの希望が出たので、さらにロシアのプラウダ紙を追加したという。
本は、決して飾り物ではなく、公務の合間に少しでも時間があれば、音楽を聴いたり、孫と遊んだりする以外に、本を読むことが多かった。出張になると、いつもカバンに何冊か入れて、列車に乗ると、本を手に取って読む。それは江氏の出張スタイルだった。
こうした知識の吸収と蓄積、外国語の勉強と応用は首脳外交の舞台で戦力として遺憾なく発揮できたのだ。
● 外交で輝いた江沢民のコミュニケーション力
1997年には、ハーバード大学で英語を使って演説した。息子の母校、ドレクセル大学でも英語でスピーチした。2000年に、米中関係全国委員会などの団体が合同で開いた昼食会でも、英語で演説した。
一番輝いた舞台は、2001年の上海だった。江氏は、英語でAPEC非公式首脳会議の対話会を主催し、『2001年APEC首脳宣言』を英語で読み上げた。その席で、彼はブッシュ米大統領(当時)と英語、プーチン大統領とロシア語、小泉純一郎首相(当時)と日本語を話すなど、余裕を持っていた。
95年、ロシアを訪問した江氏は、詩人コンスタンチン・シーモノフの詩『私を待っていてください』をロシア語で情感たっぷりに朗読した。
98年、ロシア科学アカデミー・シベリア支部を訪れ、時間を節約するため、通訳を使わずにロシア語で演説した。科学技術をテーマにした内容で、「デオキシリボ核酸の二重らせん構造」という中国語でも説明が難しい言葉も含まれていた。
2001年に訪露したときは、モスクワ大学でロシア語による40分間もの講演を行い、中ロ関係の未来について歓談した。
ロシア語は米中関係にも大いに役立った。2002年に米・安全保障特別補佐官コンドリーザ・ライス氏(当時)は、ブッシュ大統領(当時)の訪中に同行した際、江氏と一曲を踊った。江氏とライス氏は互いにロシア語で話せるため、特に息が合っていた。江氏はロシア語で、「以前より若く見えるよ」とライス氏に言ったという。ロシア語は江氏にとって使いやすい外交ツールだった。
同年、江氏は 4月5日から17日にかけてチリ、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル、キューバ、ベネズエラを歴訪した。最初の訪問国チリでは、江氏は国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会本部で、21世紀は中南米とアジアの協力の世紀であることを強調し、40分間に及ぶ演説をスペイン語で行った。
キューバでは、専用機のタラップを降りた江氏は出迎えに来たカストロ議長と抱きあい、スペイン語で「Gracias.Cómoestás,miviejoamigo(ありがとうございます。お元気ですか。古い友達」とあいさつした。会談の冒頭にも、5分間ほどのあいさつをスペイン語で行い、カストロ議長を喜ばせた。
現地の報道(「Far Eastern Economic Review」 01年4月19日号)によれば、江氏は1996年にスペインへの公式訪問後に、スペイン語の学習を始めたという。日本では、「このような報道からも、中国が中南米との関係強化に意欲的であることがうかがえる」と名古屋文理大学・内多允教授(2001年、肩書きは当時)が評価している。
他の外国語の勉強とは異なり、スペイン語はラテンアメリカ諸国を訪問するために急いで習得したものだった。当時75歳になっていた江氏は、外務省の若い通訳から7、8週間の週末をかけてスペイン語を学んでいた。後に大使になったこの通訳によると、江氏は非常に熱心に勉強し、ある単語の発音のために10回ほど練習することもあったという。生涯学習の意思を見せた好例と見ていいだろう。
● クリントン元大統領との信頼関係で避けられた衝突
外国語だけではなく、歌、楽器演奏なども文化交流や外交の場に持ち込んだ。一番、有名なのは98年6月、クリントン米大統領(当時)夫妻の訪中時のエピソードだ。
人民大会堂でクリントン夫妻を迎えた江沢民は、93年にもクリントン氏に上海製楽器をプレゼントしたことがあるほど、2人とも音楽好きで知られている。その日は、江氏は即席でバンドを指揮して『祖国を歌う』を演奏させた。その後、クリントン氏にタクトを持たせたが、クリントン氏は『海を越えた握手』(Hands Across the Sea)という歌の演奏を指揮した。これまでになかった米中指導者の交流スタイルに、人々はある新鮮さと可能性を感じた。
しかし、約1年後の1999年5月にユーゴスラビアの中国大使館が米軍のB2ステルス爆撃機によって誤爆された。事件発生後、江氏はクリントン氏からの電話に出ることを拒否したほど、憤慨した。
事件発生から1週間ほどたってから、江氏はようやくクリントン氏からの電話に出た。クリントン氏は、改めて謝罪の意を示し、故意に大使館を爆撃したとは信じないと江氏に説明した。江氏は「あなたには(そのようなことは)できないと知っている」と答えたが、「米国のような技術の先進国がこのような過ちを犯すとは信じられない」とも述べた。
2000年までに、米中双方は事件の死傷と財産損失の賠償問題で合意に達した。米中の軍事衝突へのエスカレートは両首脳の信頼関係で避けられたと言えよう。
福島のある技術系大学の教授だった在日中国人男性は、こう感想を述べた。
「楽器も書道もいろいろできる。教養レベルが高く、知識が広くて深い。私たちは追いつかないほどの指導者だ。芸術に明るい人は良い人が多い」
江氏の死去を悼む声は中国のインターネットに、SNSにあふれている。ある時代が急速に離れていく予感がした。
(作家・ジャーナリスト 莫 邦富)
ダイヤモンド・オンライン
https://finance.yahoo.co.jp/news/detail/20221202-00313793-diamond-column
Photo:Forrest Anderson/gettyimages
● 江沢民氏の人柄がわかる思い出の数々
江沢民元国家主席(元共産党総書記)が11月30日、上海市で死去した。96歳だった。ニュースを聞き、私は「過ぎ去ったあの時代が懐かしい!歌が好きなあの長老のご冥福を祈る」と書いた。すると、意外に多くの人からの反響があった。その死去を悼む声だけではなく、自らの経験したことを実例に挙げながら、その人柄をしのんだケースが多かった。
投資ビジネス関連の仕事をしている女性は、記憶に残る往時をこう振り返った。
「1983~84年前後、院生時代の私は、中央官庁の第4機械工業省だった電子工業省に実習に行った。省内のダンスパーティーのために、ピアノやアコーディオンの伴奏に携わった。当時、大臣に当たる部長だった江氏は、自らピアノを弾きに来て、私たちと一緒にワルツを踊った。その様子を撮影された写真は、多くの人が持っており、実家にも置いてある。私は正式に同省に就職して、国際交流の窓口に配属された。江氏が日本語や英語で海外からの訪中団にあいさつするのを何度も見た」
また、長いこと日本に移住している中国人は、江氏をホテルの自分の客室に泊めた珍しい体験を披露した。
「江氏が上海市長だったとき、私はちょうど上海市農業委員会で働いていた。83年、私は崇明県(今は崇明区)で、ある専門会議を主宰し、江市長を招いて話をしていただいた。会議が終わったとき、台風がやってきて、上海へ帰るフェリーが欠航してしまった。そのため、江市長は上海に帰れなくなった。ホテルが満員になって、江市長を私の部屋に泊めて一夜をともに送った。夜、風呂に入ったとき、彼は日本軍の軍犬にかまれたふくらはぎの上の傷を見せてくれた。当時、国際会議に出て英語で演説もできる江氏は、中国の指導者の中では数少ない才能ある指導者だ」
その他にも江氏のさまざまな思い出や評価が飛び交った。
「国際制裁を受け、中国が危険な状態に陥ったときに、党の総書記を引き受けた江氏は、国を苦しい局面から脱出させることに成功した新時代の指導者だった」「中国に20年間の平和的発展の時間を確保してくれた指導者」と称賛する声も多かった。
私は、1993年に『江沢民と朱鎔基』(河出書房新社)、97年に『江沢民と本音で語る』(日本経済新聞社、共訳)などの書籍の出版を企画し、翻訳したことがある。江氏の死去に対して、もう少し踏み込んで語りたいと思う。
● 8カ国語を操り、おそるべき読書家だった江沢民
私は上海外国語大学の日本語科出身なので、自然に、江氏の外国語の語学力に関心を持った。メディアの報道を見ると、江氏は8カ国語ができたという。
英語とロシア語には精通している。ルーマニア語は3番目にできる外国語だ。スペイン語、日本語、フランス語、ドイツ語は一般のコミュニケーションに対応できるほどだ。それに、珍しくパキスタンとインドで通用するウルドゥー語もしゃべれるという。
上海で市長と党書記を務めていたとき、江氏の蔵書は3000冊ほどあった。この蔵書の数は、上海のトップとして、81年から85年まで上海市長だった汪道涵氏(1915~2005年)に次ぐ2位だった。江氏のスタッフは、彼のためにワシントン・ポスト紙などいくつかの英字紙を購読し、ロシア語の新聞も読みたいとの希望が出たので、さらにロシアのプラウダ紙を追加したという。
本は、決して飾り物ではなく、公務の合間に少しでも時間があれば、音楽を聴いたり、孫と遊んだりする以外に、本を読むことが多かった。出張になると、いつもカバンに何冊か入れて、列車に乗ると、本を手に取って読む。それは江氏の出張スタイルだった。
こうした知識の吸収と蓄積、外国語の勉強と応用は首脳外交の舞台で戦力として遺憾なく発揮できたのだ。
● 外交で輝いた江沢民のコミュニケーション力
1997年には、ハーバード大学で英語を使って演説した。息子の母校、ドレクセル大学でも英語でスピーチした。2000年に、米中関係全国委員会などの団体が合同で開いた昼食会でも、英語で演説した。
一番輝いた舞台は、2001年の上海だった。江氏は、英語でAPEC非公式首脳会議の対話会を主催し、『2001年APEC首脳宣言』を英語で読み上げた。その席で、彼はブッシュ米大統領(当時)と英語、プーチン大統領とロシア語、小泉純一郎首相(当時)と日本語を話すなど、余裕を持っていた。
95年、ロシアを訪問した江氏は、詩人コンスタンチン・シーモノフの詩『私を待っていてください』をロシア語で情感たっぷりに朗読した。
98年、ロシア科学アカデミー・シベリア支部を訪れ、時間を節約するため、通訳を使わずにロシア語で演説した。科学技術をテーマにした内容で、「デオキシリボ核酸の二重らせん構造」という中国語でも説明が難しい言葉も含まれていた。
2001年に訪露したときは、モスクワ大学でロシア語による40分間もの講演を行い、中ロ関係の未来について歓談した。
ロシア語は米中関係にも大いに役立った。2002年に米・安全保障特別補佐官コンドリーザ・ライス氏(当時)は、ブッシュ大統領(当時)の訪中に同行した際、江氏と一曲を踊った。江氏とライス氏は互いにロシア語で話せるため、特に息が合っていた。江氏はロシア語で、「以前より若く見えるよ」とライス氏に言ったという。ロシア語は江氏にとって使いやすい外交ツールだった。
同年、江氏は 4月5日から17日にかけてチリ、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル、キューバ、ベネズエラを歴訪した。最初の訪問国チリでは、江氏は国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会本部で、21世紀は中南米とアジアの協力の世紀であることを強調し、40分間に及ぶ演説をスペイン語で行った。
キューバでは、専用機のタラップを降りた江氏は出迎えに来たカストロ議長と抱きあい、スペイン語で「Gracias.Cómoestás,miviejoamigo(ありがとうございます。お元気ですか。古い友達」とあいさつした。会談の冒頭にも、5分間ほどのあいさつをスペイン語で行い、カストロ議長を喜ばせた。
現地の報道(「Far Eastern Economic Review」 01年4月19日号)によれば、江氏は1996年にスペインへの公式訪問後に、スペイン語の学習を始めたという。日本では、「このような報道からも、中国が中南米との関係強化に意欲的であることがうかがえる」と名古屋文理大学・内多允教授(2001年、肩書きは当時)が評価している。
他の外国語の勉強とは異なり、スペイン語はラテンアメリカ諸国を訪問するために急いで習得したものだった。当時75歳になっていた江氏は、外務省の若い通訳から7、8週間の週末をかけてスペイン語を学んでいた。後に大使になったこの通訳によると、江氏は非常に熱心に勉強し、ある単語の発音のために10回ほど練習することもあったという。生涯学習の意思を見せた好例と見ていいだろう。
● クリントン元大統領との信頼関係で避けられた衝突
外国語だけではなく、歌、楽器演奏なども文化交流や外交の場に持ち込んだ。一番、有名なのは98年6月、クリントン米大統領(当時)夫妻の訪中時のエピソードだ。
人民大会堂でクリントン夫妻を迎えた江沢民は、93年にもクリントン氏に上海製楽器をプレゼントしたことがあるほど、2人とも音楽好きで知られている。その日は、江氏は即席でバンドを指揮して『祖国を歌う』を演奏させた。その後、クリントン氏にタクトを持たせたが、クリントン氏は『海を越えた握手』(Hands Across the Sea)という歌の演奏を指揮した。これまでになかった米中指導者の交流スタイルに、人々はある新鮮さと可能性を感じた。
しかし、約1年後の1999年5月にユーゴスラビアの中国大使館が米軍のB2ステルス爆撃機によって誤爆された。事件発生後、江氏はクリントン氏からの電話に出ることを拒否したほど、憤慨した。
事件発生から1週間ほどたってから、江氏はようやくクリントン氏からの電話に出た。クリントン氏は、改めて謝罪の意を示し、故意に大使館を爆撃したとは信じないと江氏に説明した。江氏は「あなたには(そのようなことは)できないと知っている」と答えたが、「米国のような技術の先進国がこのような過ちを犯すとは信じられない」とも述べた。
2000年までに、米中双方は事件の死傷と財産損失の賠償問題で合意に達した。米中の軍事衝突へのエスカレートは両首脳の信頼関係で避けられたと言えよう。
福島のある技術系大学の教授だった在日中国人男性は、こう感想を述べた。
「楽器も書道もいろいろできる。教養レベルが高く、知識が広くて深い。私たちは追いつかないほどの指導者だ。芸術に明るい人は良い人が多い」
江氏の死去を悼む声は中国のインターネットに、SNSにあふれている。ある時代が急速に離れていく予感がした。
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