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@莫邦富微博 : 【中日双语专栏】一本日本挂历引起的亲情回忆
@莫邦富微博 : 东方网从3月份开始开设我的【中日双语专栏】。

由日本新华侨联谊会翻译研究部的志愿者来负责把我写的日文专栏翻译成中文,而我用中文写的文稿则由日本人组成的翻译组来翻译,并由日本新侨联摄影部负责配上相关照片。专栏的第一篇文章是《一本日本挂历引起的亲情回忆》。

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作者:莫邦富 (日语翻译):广江祥子

往年到了年底时分,我从日本回上海时,都会带些挂历回去。其实日本的节假日和中国有很大不同,在上海的家里挂上日本挂历,我总感到有点不伦不类。不过,家里人还是喜欢,我估计这大概是因为我居住在日本的缘故吧。于是乐此不疲地每年搬运一些挂历回上海。

去年年底和今年年初因为工作关系,我得守在东京,没法回国出差,所以也就没有给上海家里带本日本挂历回去。后来看到微信群里有一位居住在上海的朋友在给大家赠送日比谷花坛的挂历,心想以鲜花为主题的挂历一定很赏心悦目,就悄悄地托朋友给我父母家里寄去了一本。


不料,朋友办事很认真,想得也十分周到,在寄去挂历的同时,还附上了一束鲜花。这让我父母喜出望外,没想到我会给家里送去这样一份贺岁礼品。

知道此事后,我非常感慨和惭愧。感慨的是父母所求是非常简单的,想到他们就行。惭愧的是我常常因为忙碌没有想到他们,估计在无意识中我不知道伤过多少次父母的心。这次是细心的朋友的好心为我挣得一个大分数。


细细想来,我和父母弟妹一起生活的日子极少。16岁下乡黑龙江,早早地离开了他们身边。以后上了大学是集体住校生活。在上海外国语大学任教的8年,那是父母最开心的一段时间了吧。女儿出生后自然成了他们的心肝。

可是,后来我又东渡日本,变成一去不复返的海外居住者,成了我自己命名的新华侨。

尽管我每次回中国国内出差,尽量选择从上海出入境,哪怕和家里人只能见上一面也好,尽量挤时间回家露个脸,住上一晚。但毕竟和父母没有很多交流的时间。他们生病,我没有陪去医院过;他们烦恼,我没法感受到,留下很多感情的空白和遗憾。

其实我父母不知道我是做什么工作的,每天忙于什么事,不会上网的他们只是偶然正好在电视上或家里曾经订阅的新民晚报上看到或读到我的消息。父母最清楚的是我的专业是日语,现在居住的日本,出了一些用日文写的他们看不懂的书。所以哪怕是一本反映不了中国节假日的日本挂历,在父母眼里,这挂历里面也应该有他们的儿子的声息。想到这些,我暗暗起誓,以后每年年底一定记住给父母带一本日本挂历回去。


日本のカレンダーが思い出させてくれた両親への情

これまで年末に上海へ帰省する際にはカレンダーをいくつか持って帰るようにしてきた。日本と中国では祝祭日がかなり異なるため、上海の実家に日本のカレンダーを飾ってもそぐわないと感じていた。だが、それでも両親が喜んでくれるのは私が日本で暮らしているからだろうと思い、毎年せっせとカレンダーを持ち帰っていた。

今回の年末年始は仕事の関係で東京を離れられず帰省できなかったため、上海の実家にもカレンダーを届けることができなかった。そうしたなか、微信(wechat)では、上海在住の友人が日比谷花壇のカレンダーを皆にプレゼントしているのを見かけ、花のカレンダーはいい目の保養になるだろうと思い、こっそり友人に頼んで実家に1部送ってもらうことにした。

すると、真面目なその友人は細やかな計らいでカレンダーと一緒に花束も送ってくれた。私からこのような年始の贈り物が届くとは想像もしていなかった両親は大喜びだった。

そのことを知って、私は大いに感慨を覚え、また深く恥じ入った。感慨を覚えた点は、両親が求めているのはとてもシンプルで、彼らを気にかけるだけでよいのだということだった。恥じ入った点は、しばしば私が忙しさを理由に両親を気にかけることをせず、無意識のうちに彼らの心を傷つけてきたかもしれないということである。今回、気のきく友人の好意のおかげで私のポイントが随分とあがった。

思い起こせば、私が両親や弟妹と生活をともにしたのはほんの短いあいだである。16歳のときに黒竜江へ下放されて早々と彼らの元を離れ、その後進学した大学では寮生活を送った。私が上海外国語大学で教壇に立っていた8年間が、両親にとって一番楽しかった頃だろう。娘が生まれると、当然ながら彼らはとてもかわいがってくれた。

だが、その後私は日本に渡り、そのまま海外居住者となった。自ら命名した新華僑となったのである。

私は中国出張の際にはなるべく上海から出入国するようにし、少ししか会えなくてもできるかぎり時間を捻出して実家に顔を出し、一泊するようにしている。だがそれでもやはり両親との時間はそれほど持つことができなかった。両親が病気をしても病院に付き添ってあげることはできず、なにか悩みごとがあっても気づいてあげられなかった。心に虚しさと申し訳なさが残る。

両親は私がどんな仕事をしていて、日々どういったことに忙しくしているのかを知らない。インターネットとは縁遠い生活をしている彼らは、テレビや以前定期購読していた新民晩報で、私についての報道をときおり目にすることがあるだけだ。両親にとってはっきりしているのは、私の専門が日本語で、現在日本で暮らしていて、彼らには読めない日本語の本を出しているということである。だからたとえ中国の祝祭日が載っていない日本のカレンダーであっても、両親にとってはそこに息子の消息が感じられるのだろう。私はひそかに心に誓った。これから毎年年末には必ず両親に日本のカレンダーを持ち帰ろうと。
2016-03-04