北海道中国会

北海道と中国との文化交流、経済交流促進に努め、
北海道にいる華僑華人発展の支援及び北海道地域経済振興に寄与する
 
村山首相談話の会・訪中代表団に参加して
山下泰生

私は11月20日~24日まで村山首相談話の会・訪中代表団に参加しました。その後妻の実家の遼寧省の葫芦島に寄り上海経経由で26日に帰国しました。1966年に訪中学生友好参観団で初めて中国に行って以来、今回で16回目ですが、中身の濃い意義ある訪中でした。村山首相談話は1995年8月に発表され「日本が中国を侵略した事を公に認めて中国人民に謝罪して日中不再戦の誓いを建てた」歴史的な文章でした。ところが2015年8月に安倍首相は日本が「中国を侵略した事を曖昧にし、明確に謝罪せず、安保法制で戦争のできる国に方向転換しているのにかかわらず、積極的平和主義と欺瞞にみちている」談話を発表しました。「村山談話を継承し発展させる会」はこの以前からの安倍晋三の歴史修正主義の言動を警戒して2013年11月に結成された全国的な会であります。

今回の代表団による訪中は3回目であります。中国人民平和軍縮協会の招待で5名が参加しました。訪中の目的は2015年9月の尖閣列島国有化問題以降、日中関係は1972年の日中国交正常化以降かってないほど険悪したが依然として改善に至っていない。アジアの平和と繁栄の為には良好な日中関係が不可欠であります。今般、「村山首相談話の会」訪中代表団は、中国の平和団体・学者・研究者などとの交流・意見交換を通じて21世紀において日中両国人民が友好と信頼の関係を再構築する為の努力の一環を目的として訪中した。
         
訪中メンバーは団長は高嶋伸欣(村山首相談話の会・共同代表:琉球大名誉教授)、秘書長は藤田高景(村山首相談話の会・理事長)、団員は鳥越俊太郎(村山首相談話の会・共同代表:ジヤーナリスト)、高野孟(村山首相談話の会・共同代表:インサイダー編集長)山下泰生(村山首相談話の会・理事:北海道中国会・事務局長)の5名。

11月20日に成田空港を出発し、上海経由で北京着。北京空港で中国人民平和軍縮協会常任理事の林欐とアジア太平洋処処長・羊蕾が出迎えた。民族飯店に泊。

11月21日 午前中は北京郊外の中国人民抗日戦争記念館を参観し献花した。1937年7月7日の未明、蘆溝橋が日本軍により爆破され日中が全面戦争に突入した現場を歩いた。

その後、中日関係史学会副会長の徐啓新、副会長の高海寛常務理事、新華社世界問題研究センター研究員の張煥利、北京師範大学教授の姜弘などと懇談した。中国側からは安倍首相の歴史認識、憲法の第9条改正の第3項に自衛隊の明記の問題、日中関係は改善の兆しがある一方、南シナ海問題でぎくしゃくしている、日中の両首脳の会談実現により、改善が望まれる。

日本側は9月の総選挙は自民党が勝ったが与党と野党の投票率では野党がやや上回る。このことは、日本国民の多数が安倍政権を支持しているわけではないことの証左であること。憲法改正の動きはあるが、必ずしも、国民の多数が支持している訳でないことなどを発言した。

午後は万寿賓館にて中国人民平和軍縮協会の安月軍秘書長と会談した。

中国側は中共第11回大会の成果、課題、目標の概略と今年は日中国交正常化45周年であり、両国民の相互理解、絆の強化と両国の改善が望まれること、来年、日本を訪問して村山談話の会と講演会を開催したいし、9月の国際平和dayには意見交換をしたい旨が提案された。

 日本側は日本も40年前に水俣病などの公害問題が発生したが、当時の企業や政府が放置したので被害住民は訴訟などを起こし立ち上がり、今日のように公害補償、環境保全対策、環境技術の進歩を獲得した。この日本の経験を参考にしてほしいと述べた。第2次安倍政権は違憲の安保法制いわゆる戦争法、特定国家秘密保護法、共謀罪法を強行採決したのに対し、怒り立ちあがた市民運動勢力を安倍首相は恐れ嫌っている。この市民運動勢力が今回の総選挙で野党共闘の統一戦線を作り、北海道では成功した。

 この後、中共中央対外連絡部の李軍副部長を表敬訪問した。李氏は副大臣に相当する人物で終始、和やかな表情で村山首相談話の会5人全員に誰々さんと声をかけ自己紹介を熱心に聞いていたのが大変印象ぶかかった。

 夜は平和軍縮協会の周力副会長の主催歓迎会に招かれた。

11月22日は高速鉄道(新幹線)で瀋陽に向かった。遼寧友誼賓館をチェックインした。

あと、平頂山惨案遺跡記念館を参観し、献花した。平頂山虐殺事件とは満州国建国から半年後の1932年9月、満鉄の撫順炭鉱を警備する日本軍守備隊が、近くの平頂山集落の中国人住民3000人にガソリンを撒いて大量虐殺した事件です。記念館には当時のそのままの村落の模型と掘り起こされた老若男女幼児の遺骨が展示されていました。私たち日本人は南京大虐殺のことは大概、知っていますが平頂山事件は知らない人が多いと思います。衝撃の参観後、布に5人一人ひとりが自記筆で思いを書き残しました。

次に、撫順戦犯管理所旧跡陳列館を見学しました。当時、日本人捕虜の一部はソ連のシベリア地区捕虜収容所に監禁され、強制労働、飢餓、取り調べを受けていたが、1949年10月に中華人民共和国成立した後、ソ連と交渉して1950年7月にこの撫順戦犯管理所に移管させた。周恩来の方針で手厚い対応が行われ、十分な食事が与えられ、強制労働もなかった。ここで、日本人戦犯は反省学習、罪行告白、犯罪を要約筆記して思想改造した。そして、日本に全員無事帰国して中国帰還連合会を創立して一生、日中友好運動に貢献した。

 夜は撫順市外事辨公室副主任愈磊の主催で晩餐会に招かれた。

11月23日は「九・一八」歴史記念館を参観し、献花した。1931年9月18日、日本の関東軍が奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆発した事件。この事件を利用して翌年、日本軍は傀儡政権の満州の建国を宣言した。私は2度目の参観ですが今回は館のガイドが詳しく説明してくれたので日本の中国侵略の歴史が良く分かった。
午後は瀋陽師範大学を訪問して遼寧省の日本問題専門家と意見交換した.日本の政治、経済、歴史、文化などあらゆる分野に精通した研究者が各自、発言し、日本側も全員、自分の主張をした。

夜は友誼賓館友誼宮で遼寧省外事辨公室責任者主催による晩餐会に招かれた。相互に日中友好の前進を誓いあった。

 24日、4人は上海経由で日本に帰国した。私は妻と共に妻の実家の遼寧省の葫芦島に高速鉄道で向かった。葫芦島は1945年8月15日の敗戦直後、旧満州の関東軍は民間人を置き去りにして、いち早く逃げ、残った満蒙開拓団など民間の引揚者160万のうち17万人以上が病死、残りが死線を超えてアメリカの船4隻でこの葫芦島から1946年8月に日本に帰還。24日は瀋陽泊。25日は秦州空港から上海。呉昌碩記念館参観、上海バンド、豫園で小龍包を美味しく食べる。

 今回の訪中は日中の歴史認識を再確認する旅であった。高嶋さんは歴史学者の家永三郎さんの教科書裁判を国と戦い、アジア太平洋戦争時の東南アジアにおける中国人の犠牲者を現在、現地に何回も行き調査・研究しているし、沖縄琉球大の名誉教授でもある。2年前に脳梗塞をしているので、奥さんがハードな活動を辞めるように気づかっているが国内外を飛び回っている。藤田さんは村山談話の会の創立を初めに呼びかけ全国の戦争をさせない総がかり行動の市民運動にも参加している。鳥越さんは毎日新聞系のテレビのキャスターとして有名なジャーナリスト、最近は癌の手術4回を含め6回の手術をして癌を克服できたのは漢方が抗がん剤の副作用を全て消したお陰と述懐していた。高野さんは日本の労働組合の総評の初代の事務局長の息子で、2年前、血管の中を突然、訳の分からない異物が走り30秒で右眼を失明したが一命はとりとめて、現在、千葉で農業をしながらインサイダー雑誌の編集長をしているので国内外の政治情勢に詳しい。1964年に中国に家族で招待され2か月間初訪中している。私は1966年に全国の学生友好参観団で初訪中した後→学生運動→1969年11月、日米安保条約改定の佐藤栄作首相の訪米に反対したデモで逮捕され監獄→工場労働者に下放して労働運動→現在は日中友好運動と市民運動。今回、おもしろかったのは、夜の歓迎会で毛沢東の話が出たとき、高野さんが当時、毛沢東の実践論や矛盾論を読んでましたと発言すると、鳥越さんも僕もそうです、私は読んで実践してデモで逮捕され投獄されましたと、日本のメンバーがほぼ、全員、毛派?
2017-12-04